「731部隊―実像と虚像」講演録 11
スライド25は新妻ファイルの一部です。新妻ファイルというのは、今年(2006年)の5月末に防衛庁の防衛研究所かな、恵比寿にありますが、あそこに寄贈しました。皆からなんでそんな馬鹿なことをするんだと言われました。でも大丈夫です。新妻さんというのは敗戦時は中佐で、最後の一年間、陸軍省で科学技術行政の中心にいた方です。その仕事の一環として、広島に原爆が投下された時に仁科芳雄博士なんかと一緒に最初に広島に行った陸軍省のスタッフとなりました。広島原爆に関しても新妻さんはいろいろな文書を残していて、それらは生前、広島の原爆資料館に寄贈されました。それが現在広島の原爆資料館のガラスケースの中に入って、展示されています。
その一方で、彼は敗戦後に731部隊の事情聴取にも立ち会います。その時のメモが、新妻ファイルとして、「マッカーサー司令部連絡綴」として、ほとんど手書きですが2百枚ちょっとある。そのうちの一つがスライド25の「北野中将ヘ連絡事項」です。これは1945年10月頃の書類です。北野というのは、1942年の8月に石井に代わって部隊長になります。私が彼にインタビューした時に、「着任した時はどんな感じでしたか?」と聞きました。そしたら彼は「ほら、南の方に行ったじゃない、あの部隊がちょうど帰ってきて、あわただしかったよ」と答えてくれました。彼は、はからずも浙贛の作戦で、731部隊と1644部隊が合同で、その地に生物兵器攻撃を行ったことを自分から話してくれたことになります。
連絡事項の一.に「〇及『保作』ハ絶対ニ出サズ」とあります。〇、これは石井四郎が書いた「丸太」のことです。保作というのは石井ノートのホ号、細菌戦作戦です。これは1946年1月段階での最重要事項だったことが分かります。それ以外に占領軍に隠したかったこととして、七・八棟、田中班、それに八木沢班があったことも分かります。それぞれについて、七・八棟は中央倉庫、田中班はペスト研究、八木沢班は自営農場であった、と説明するよう指示している。隠したかったことは、七・八棟については人体実験、田中班についてはペストノミ=攻撃的生物戦・細菌戦の研究開発、八木沢班に関しては植物に対する生物兵器攻撃の研究開発だっただろうと考えられます。
「保研」とは、攻撃的な生物戦研究ですが、それについては自衛のための研究と答え、さらに突っ込まれたら、それについては石井と増田しか知らないと、答えるよう指示している。このように答えよ、という指示から隠蔽したいことが浮かび上がってくる。こうした逆説が歴史的文書を読んでいて面白く感じるところです。
スライド26
スライド26も新妻ファイルの一部で、増田大佐から新妻中佐への手紙です。②(スライド26の右側)には「尚、内藤中佐の意見はタとホ(それぞれマルで囲んである)以外は一切を積極的に開陳すべき」という書き込みがあります。内藤中佐というのは内藤良一中佐、戦後日本ブラッドバンクをつくり、そこの社長を務めます。その後ミドリ十字は吉富に吸収され、今は三菱ウェルファーマという会社になるんですが、そこを創った人です。増田もタとホという隠語を使って漢字の丸太を避けているんです。これが実態だろうと思います。
それからもう一つは、この手紙が書かれた11月9日までに、アメリカ軍の最初の、M・サンダースによる石井機関関係の調査は終わるわけです。終わるんですが、細菌戦の研究はもっぱらワクチンのそれであったとGHQの記録にあり、得られた結果は人体実験なんてやってませんよなんていう説明に終始していた。それでサンダースはおかしいなと思い始めたのがこの頃です。11月になってから、サンダースが本国へ帰った後、さらに陸軍上層部からはどのような指示があったかを調べます。それで河辺とか若松(只一)とか、そういう陸軍省の幹部たち、参謀次長とか陸軍次官たちの尋問を追加的に行うのがこの時期です。ですからこの時期になると、増田や内藤とすれば人体実験と攻撃的生物(細菌)戦以外は全部積極的にしゃべらないとまずいんじゃないのという判断になったのだろうと思います。1946年の末までは大体こういう方針でうまくいっていました。
防衛庁に寄贈するのは新妻さんの奥様のご意向です。それだけだと見られなくなることもあって、新妻ファイルは全部デジタル化しましてDVDになっています。それでDVDは壊れる可能性もあるのでマイクロフィルムも作ってあります。それで防衛庁にはDVDとマイクロフィルムと現物を差し上げたというか届けました。DVDは僕のところにありますので差し上げることができます。
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