Tuesday, September 19, 2006

「731部隊―実像と虚像」講演録 8

スライド17
スライド17は日本軍が行った生物兵器攻撃、今から見ると「試用」の歴史を示しています。スライドの試用より前、1939年に中国‐モンゴル‐ソ連の国境に近いノモンハンという所で病原体を川にまいています。その後1940年、寧波、ここは上海の対岸で昔遣唐使が乗った船が着いた港、この寧波の港に日本軍は細菌戦攻撃をかけます。それから中国中部の浙江省と江蘇省の境界、浙贛と呼ばれたところですね。その地域に1942年、大規模な作戦をやります。それからすでに見ましたが農安と新京、同じ1940年にペストが流行します。これは長いこと731部隊の生物兵器攻撃が原因ではないかと言われていた流行です。

ある病気の流行が生物兵器の攻撃による人為的なものなのか、それとも自然の流行なのか、見きわめるのに疫学というのは非常に重要です。実際に今ここで疫学的な説明はしませんが、歴史的な事実については疫学的な分析をすることによって、その病気の流行が人為的な流行だったのか、或いは自然の流行だったのかをかなりはっきり見きわめることができるだろうと考えています。

スライド18
それについてスライド18と19で具体的に説明します。スライド18の『凄惨人実的細菌戦』(残酷な人体実験的な細菌戦、1993年刊)は、著者の黄さんと歩さん、お二人から1994年8月2日寧波でいただいたものです。左にあるのが1940年の寧波でのペストの被害地図です。斜線部分が患者が出た家です。この本では1940年10月27日にペスト攻撃され、次々に患者が出て、死んでいった経過が、一人ひとりについて全員の名前と性別と、いつ発病し死亡したかが記録されています。これは極めて貴重なデータです。これは生物兵器攻撃被害についての研究としてきわめて貴重な研究だと僕は思っています。

スライド19
スライド19の系列2.は寧波の死者発生を、日にちと死者数を先の本によってグラフ化し亜ものです。4日目に一人死んでいます。それから10日目くらいまでに30人くらい亡くなっています。

今度は系列6。これは1928年に中国東北部、銭家店とうところでペストが大流行しましたが、そのときの患者(死者)の発生状況です。その時に日本の満鉄の大連研究所の人たちが、現地で実際に死者の数を経過日数とともに調べている。これをグラフにしたのが、系列6です。流行の最初は患者(死者)が少しずつ増えていくわけです。3週間目くらい経ってかなり流行がひどくなっていって、それの後一回落ちるんですが、またピークがくる。これが1ヶ月くらい後。それで一回落ちて、またもう一回上がっていますが、これは多分実はこの間何日間かのデータがなくて、後でまとめて入ったので特別に高くなっていると僕は思っています。ただ、ピークが2つあってそれからだんだん下がっていって2ヶ月ぐらい続いてやっと収束します。

何で収束したのか、当時抗生物質はなくペストに有効な治療はありません。せいぜい栄養とって寝ているくらいです。何で収束したかというと、この時のペストはみんな腺ペストでした。腺ペストは、ネズミの体内にペスト菌がいて、それをノミが吸います、そしてそのノミが人間を吸うと人間が腺ペストに感染する。昔でいう満洲の奥地ですから、10月にもなると寒くなってノミはあまり動かない。ですから流行が終わったのはノミが動かなくなったというだけの話。治療方法が分かったわけではありません。

逆に寧波の系列2。ここは上海の対岸ですか結構暖かく、ノミが動けなくなるにはまだだいぶ時間があるわけです。これ、最初にピークが来て下がっていくのは、最初にペスト菌をもったノミたちが散々活動したあと、自然環境に合わないからどんどん衰退していく。それで最初に流行のピークがきて後はずっと下降していく。一方系列6では、最初はネズミの中にペスト菌を持っているのもがそんなに多くなかった。しかし一定時間が経過してから患者数がピークになるというのは、実はそれに先立ってネズミの感染が拡大していたわけです。ペスト菌をもったネズミがどんどん増えているわけです。ですからそれをノミが刺す。それが人間を刺す。ということでネズミのピークに遅れて人間のペストのピークが出てくる。ネズミがいてもノミの活動が止まると沈静化する。

下の系列4。系列4は新京での患者の発生数です。小さいけれどピークが二つあります。さらに患者の発生がだらだら続き、最初の患者発生から50日過ぎてからも新に患者が出ています。新京での患者発生は寧波でのパターンと比べると明らかに自然発生だと判断できます。最初に発生した所は日本人が経営する家畜病院でした。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home