Wednesday, September 13, 2006

「731部隊―実像と虚像」講演録 2

今日はスライド2のような順番で話をしますが、その前に僕がなぜ731を始めたのかということをお話しようと思う。        
                               これはスライド2です
         

動機はけして古いことに関心があったのではなくて、僕自身は元々理系の学生でした。それからはだんだん科学の、人間の活動としての科学の歴史をやるようになりましたが、 その過程で、科学者はどれだけ視野が狭くなれるか、視野が狭くなるとどれだけ残酷なことができるんだろうか、を見たかった。実はこれは僕自身の問題でもあ る。僕自身が残酷なことをやるかも知れないが、幸いそういう機会もなかった。しかし機会があればやったかもしれない。それで歴史の中で科学者たちはどんな ことをやってきたんだろうと考えたのが、こういうことを調べ始めたきっかけです。それは決して他人事ではなかった。

科 学者というのは少なくとも知識をいっぱい持っています。色々なことを知っています。ですから何となく偉そうにしています。心臓なら心臓の分野ではきっと偉 いわけですね。それから素粒子論なら素粒子論について専門家なわけですね。ですから専門家としては偉い顔をしている、それはそれでいいんですけれども、 じゃあそれ以外の分野で、いつもそんな風に偉そうにして常識を持って行動しているんだろうかと思ったりするわけです。本当に常識があってものを考えている んだったら、原爆というのはつくるんだろうか、と思ったりもするわけです。

一 見紳士風の科学者たちが本性を現すのは、戦争という危機的状況の中であぶりだされてだろうと考えて、戦争中の特に日本の科学者たちを調べようと思った。こ れは原爆だったらアメリカのマンハッタン計画だとか、それに協力したドイツからイギリスに亡命して、原爆をもっと小型にできることを発見した科学者たちが います。そういう人たちを調べるためには、英語が読めるだけではダメなんですね。例えば、先のノート(スライド 1)の石井四郎なんていう字は漢字で薄い字です。薄い字ですけれども漢字だから僕読み取れます。あれがドイツ語だとか英語だったらあんなに汚らしく書かれ ていたら全然読めません。だけど多分ドイツ語あるいは英語を母語にしている人だったらそんなものも読んでいけるわけです。そうすると同じテーマで研究を やっている人との競争ということを考えると、外国のことやっていては、そうした人たちとは競争にならないわけです。

そういうこともあって日本の科学者たちを選ぼうということになった。で、第二次世界大戦中の兵器でABCですね。Aは核兵器、Bは生物・細菌兵器です。Cは化学兵器。日本はどれもやっていました。原爆もつくろうとしましたけれども失敗しました。原子炉すらできないというか、連鎖反応の前で止まっているわけですね。これ は失敗。それから化学兵器。これは僕が住んでいる地域に海軍の工場がありまして、そこの北側の町で製造していました。今から4年前、2002年、道路工事 中に古い毒ガスが出てきて作業員の方が受傷した。海軍よりもっともっと大規模なのが広島県にあった大久野島。ここでびらん剤だとかくしゃみ剤だとかそうい う毒ガスを造っていた。

ところで、最初の毒ガス製造装置はフランスから輸入してきたのですね。日本軍の毒ガスというのは、新しい毒物も探求しましたが結局第一次世界大戦、1918 年に終わっていますが、その時までに開発されたもの以外は開発できませんでした。そんなことから言いますと科学史の対象としては原爆も毒ガスもあまり面白 くない。科学者の役割というのはあまりたいしたことない。その中で残っていったのは生物兵器、石井四郎たちの活動ということになる。最初から人体実験を 狙って研究を始めたのではなくて、今のような経緯で戦争中の科学者というのはどのように振舞うんだろう、というようなことを考えて消去法で行ったらここに たどり着いてしまったというのが正直なところです。

それで、最初の6つ の節では、細菌に関してはこのようなことが行われましたよなどいう具体的なデータや実験などの「実像」の紹介、次いで細菌の実戦試用という「実像」と「虚 像」の狭間の事例を紹介します。それから戦後の活動、この辺りからかなり「虚像」がふくらんでいきます。例えば細菌の実戦試用なんかでは、実態はどうだっ たのか。それから戦後の活動、米軍との関係でどうだったのか。その辺からですね、かなり石井機関の虚像というのは広がっていっただろう。そういう中で、石 井機関の遺産、遺産というのはいいものも悪いものもいろいろあります。いい悪いはその立場によって違ってきます。Aにとってよいものは、対立するBにとっ ては悪いもの、ということはよくあります。

これはスライド3です

ス ライド3は元々は、1945年9月および10月段階の「日本における科学情報調査」、通常サンダースレポートと呼ばれているものです。その中にある防疫給 水部の配置図。東京の陸軍軍医学校、ハルビンの731部隊、北京の1855部隊、南京の1644部隊、香港の先の広州の8604部隊、ここまでが1939 年までにできた。それから1941年に、第二次世界大戦に日本が参加したときにシンガポールのイギリス軍を追い出しました。そこのエドワード7世医科大学 に南方軍防疫給水部(9420部隊)というのをつくる。シンガポール、広州、南京、北京、ハルビン、この5つが固定の部隊で、全部で1万3千人規模で、戦 時編成の師団ひとつ分の人員です。

それら全体を統括していたのが東京の陸軍軍医学校の防疫研究室。そういう構造があるので最初に17年前に人骨(ほね)が出てきたときに731部隊との関連というのが取りざたされるということになったのだろうと思います。

註:長くなるのでタイトルの「人骨発見17周年集会」は今回から省略します。

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