Thursday, September 21, 2006

「731部隊―実像と虚像」講演録 10

前回までが戦争中のことで、今回から戦後のことになります。ひとつだけ、前回の補足をしておきます。それは石井の生物兵器試用の計画のその後です。1942年の浙贛作戦での失敗で「虚像」が暴露されたのですが、その後、44年になってサイパン島陥落が必至の情勢となった春先、ハルビンの731部隊から京大卒の2人の軍医大尉に率いられた20人弱の攻撃チームが病原体を持ってサイパン島に向った。結果は大部分がサイパン島到着前に米軍の攻撃でそれぞれが乗っていた船が沈没などして、途中で戦死した。これはこの時期になると、虚像にもすがりたいという、切羽詰った情況であったことが分かる。

さてここから、1945年8月16日以降の話です。

スライド22の左側の一.~三.の記述があるのは冒頭で見ていただいた石井ノートの最後にあるページです。物理的には最後のページですけれども、どうも石井のノートの使い方からすると彼が最初ここに書き込みをしているような気がします。以下読みあげます。
                    スライド22

一.ペスト地 北尾雇員、小形雇員、

加茂野技手ノ昇級

二.家族ノ採用

三.十二班トPxトホ号ノ一部

及各部長ガ特ニ推奨スル人

物ヲ審査シテ決定ス

その内容ですが、三.の十二班というのはなんだかよく分かりません。ただ石井のノートを見ると「八月九日・十日真先ニ報告ス十二班ノ破壊」というのが出ています。それで相当に秘密性の高い、隠す必要のあるグループと予想できるので、僕はこれは人体実験を受けていた被害者たちが収容されていた監獄ではないのかなあと思っていました。pxはペストノミのことです。人工的にノミを増やして、ペスト菌を大量に持っているネズミにくっつけて、そのネズミの血をノミが吸って、体内にペスト菌をいっぱい詰め込んだノミのことをペストノミ、pxという暗号で部隊では言っています。ホ号というのは細菌作戦、生物戦の実施のことを指しています。そうした特別な人たちを選んで決定すると書いてある。

これを最近元部隊員の方に見て貰いましたが、自分は十二班が何かは分からないが、文脈からするとペストノミをやっていた田中班ではないか、とおっしゃっていました。

次にスライド22の右側です。相見湾は相模湾の間違いだと思います。ここでは「帰帆船ナラバ人員機材ガ輸送デキル見込」に注目してください。人員器材とはなんだろうか。器材というのは顕微鏡のような医療機器・研究機器かもしれません。しかし人員器材となると、もう少し別の可能性を考えるべきだろうと思います。

スライド23
スライド23は同じノートの見開きで、左側がその上段の一部です。右側がその下段です。

「内地ヘ出来ル限リ多ク輸送スル方針 丸太-pxヲ先ニス」というのは何を意味しているのでしょうか。最初これ見たときは、まず「丸太」っていうのにびっくりしたですね。丸太っていうのを部隊関係者が漢字で書いているのを見たのは初めてなんです。みんなぼかして書いているんですね。露骨に書いてあるのは初めて見ました。それは個人的な感想です。

ここで考えたのは、この人たちは、被験者は45年8月15日以降も生きていたのか。実際に見ていくと、14日くらいにはみんな殺されているわけですね。ですけれどもここにこう書かれているわけですね。「pxヲ先ニ」、pxも、ペストノミもあったのか。ペストノミはだいたい試験管に入れておくと1942年までのデータで言うと2週間、17~18日もつ。大きい試験管ではなくて、直径一センチくらいの試験管に入れておくと、全滅するまでに2週間以上かかる。ですから2週間くらい輸送に時間がかかるとしてもその間生きているわけです。十二班は田中班ではないか、とおっしゃっていた方によれば、45年夏にはノミは熱と光から守ってやれば3ヵ月生存すると部隊では言われていたという。pxというのはあっても不思議ではない。それを先に送る。というふうにこれは読めます。

僕が不思議に思うのは右(ノートの下段)にあるこっちです。「方針 一.婦女子、病者、及ビ高度機密作業者、及ビ順次全員ハ万難ヲ拝シテ内地ニ能ウ限リ速ヤカニ内地へ帰還セシム」。人間については「輸送」ではなく「帰還」と書いているんですね。

こうした比較から、左の(上の段)記述は、被験者およびpxを先に日本へ送ろうと、と読めるわけです。被験者についてはいくらなんでも生きている人を送るとは考え難いので、人体実験のデータをできるだけもらさずに集めて送ることか、とも考えられる。そのデータには人体実験で得られた標本も含まれるかもしれない、と考えたりしています。

スライド24
スライド24の左側には「1.六万満洲カラ 2.一ヶ月デ全滅 3.夏程ヨイヤレ … 6.釜山ヨリヤレ … 8.元山ヨリモ小船ナリ」とあります。何をしようとしていたのでしょう。

スライド24の右側には「26/8(8月26日)」と書いてあります。中身は、1.では医務局でいろいろな話が出たこと。予備役を含む復員のこと。「資材ハ附近ノ陸病(陸軍病院)ヘ」と書かれている。2.の「高山、中山 復員案」というのは多分軍医学校の中山学校というのが千葉にできるんですね。だからそこに持っていくのかなあと思います。「一部ハ東一院附(東京陸軍第一病院)」ですね。その下が明日退」。次が青木さんの本ですと「研究抽出」となっているんですけど他のところに「抽出」という文字があって、その抽出とはちょっと違っていて「機密」と読めます。

「機密」だとするとこれは実は先ほどの「丸太」という言葉に象徴される中国人やソ連の、あるいは朝鮮の人たちから取った臓器などの標本、そういうものを彼らは「丸太」と呼んでいて、そうしたものを持ち帰っており、それをどこかに始末しなければいけない、というのがこの辺りの話なのかなあとも思える。そうすると「東一」に置いておいたものがいよいよまずくなって厚労大臣への証言にある1947年くらいにあちこちに分散された、という話につながっていくかも知れないなあとも考えられる。つまり、研究書類であるとか、人体実験のデータであるとか、それは紙ですからこれは燃やしてしまうことができます。あるいはびりびりに破いてしまうこともできます。わざわざどこかに隠すということもないだろうと思っています。

3.の「河辺(虎四郎)」というのは参謀次長。「梅津(美治郎)」というのは参謀総長、これは731部隊ができた時の関東軍の司令官ですね。この辺は石井の上司だったことがある人たちです。

河辺は「犬死ヲヤメヨ」、梅津は「静カニ時ヲ待テ」。このことの意味は、一般的には阿南陸軍大臣が8月15日に割腹自殺した。クーデターをしないでくれということで彼は割腹自殺をしたんですけれども、そういう意味でことさら米軍、連合軍に対していろいろ反抗しないという意思一致があっての表現として「静かに時を待て」という言い方がありました。しかし河辺と梅津がこうしたことを8月26日になって石井に言うのは、彼がこの時になってもまだ何かを画策していたのではないか。もしハルビンから8月14日に持ち出したとすれば、ペストノミはこの頃にはまだぎりぎり生きているんですね。

8月14日に最後の部隊が出ます。最後の部隊には一発が長さが1.5メートルほどで、中に乾燥菌、多分炭疽菌、を詰めた細菌爆弾が60発ほど積んであったという証言があります。部隊での細菌爆弾は、8月14日夕方に最後の部隊が出るまでに現地で破壊していると言われていました。しかし、60発積み込んだと証言する人は、列車で最後に逃げた人ですが、8月22日から3日間くらいかけて、釜山で、中身が入っている細菌爆弾を全部海に捨てた、とも証言しています。

8月10日か11日に東京から新京に飛んできた朝枝という参謀が石井に対して、一切の証拠を隠滅せよ、何も持って帰ってはいけない、部隊は存在しなかったことにしろみたいな大本営の命令を伝えます。しかしその命令に背いて、中身の詰まった細菌爆弾を、少なくとも釜山まで運んでいるわけです。そんなことから考えると石井は、米軍にひと泡吹かせてやろうと考えていたのではないかと思うのです。

ただ飛行機は既に24日には使えなくなっています。他方731部隊では、1945年9月に、夜桜特攻隊を組織して、ペストノミをみんなに持たせて、いろいろな所に部隊員を散らそうということを考えていた。夜桜隊員はペストノミをばらまくだけではなく、自分自身をも感染源とする「特攻部隊」でした。

飛行機が使えない状況の中での石井の攻撃は、米軍が上陸する前に上陸予定地点にペストノミをまいておく。日本人が感染するということもあるけれども、多分集落からはなれた上陸地点を考えていたと思う。しかし実際にやれば、栄養も体力もある米兵には感染は広がらず、栄養失調で疲弊していた日本人に広がっただろうか思います。石井は米軍の上陸地点を探るのに河辺を訪ねたのではないか、と思います。米軍の上陸地点の詳細は河辺が一番良く知っていたはずです。8月の21日か22日に、フィリピンから米軍の命令書を持って帰ってくるんです。彼には米軍の上陸地点はどこか、いつ上陸するなんてことは分かっていた。

これは状況証拠ばかりで確定的なことは何もありません。ですけれども、その頃だと部隊から8月14日に持ち出したとすれば、ペストノミは未だ生きています。

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