Thursday, September 14, 2006

「731部隊―実像と虚像」講演録 3

                                    スライド4     
スライド4は「防疫研究報告」第2部の第99号からとったものです。1941年に発表されたものです。記述の本事変というのは当時の日本の呼称で「支那事変」、今の言い方では日中戦争ですね。その時に新設セラレタル防疫機関。これが1から18まであって、これが固定って書いてあります。スライドの3と同じですが、関東軍(ハルビン)、北支那
軍(北京)、中支那軍(南京)、南支那軍(広州)の各防疫給水部で、全体を取り仕切っているのが最後に出てくる軍医学校陸軍防疫研究室ということになります。このあと、1942年にシンガポールの南方軍防疫給水部が加わります。     

スライド5

スライド5は戦前、軍医学校があった頃の構内図です。感染症研究所の上方からさらに左の方へと、防疫研究室の広大な敷地がありました。人骨(ほね)が見つかったのが●の辺です。感染症研究所の建築工事中に、建築現場の地下から出てきたわけです。右側の写真がそうです。                                  スライド6

スライド6はさっき見ていただいた陸軍軍医学校「防疫研究報告」第2部に論文の発表している研究者のうち、1940年から45年の期間大学の教員だった人たちのリストです。小島三郎は東大の教授です。細谷省吾、内野仙治、小林六造、緒方規雄、柳沢謙みんな東大などの教授で嘱託としてそれぞれこういう論文を、防疫研究室が出していた研究雑誌に発表していた。柳沢謙の場合は自分の論文は発表しなくて論文指導だけです。これらの研究者のうち、小島と細谷と内野は、1947年に石井機関での人体実験がアメリカ側に発覚します。逆に言うと45年の9月から一年くらいかけて石井機関の調査を行った米軍は人体実験を暴露できなかった。ということがソ連が米国に、石井たちに対する裁判を要求したことで明らかになった。人体実験に関して、47年になってアメリカ側の調査担当者が来ます。その時には、石井四郎などと並んで、大学の小島三郎、細谷省吾それに内野仙治が調査対象となった。彼らが石井機関との関係でやった研究について米軍の調査を受けるということになったのだった。

スライド7


スライ7が、先ほどの細谷なんかが書いた「防疫研究報告」第2部、これがナンバー1から900まであるんです。本当はこれが9冊なきゃいけないんですが、1冊なんか第7巻が一冊抜けています。これどこにあるかというと米国の議会図書館にあるんですね。日本にはありません。これは明らかに「寄贈 防疫研究室」ちゃんと軍医学校の判・蔵書印もあるんです。これ要するに、敗戦のときに米軍が日本から持っていた。持っていって自分たちの財産にしているわけです。こういうものは返してくれといわなきゃいけないんじゃないかなと思ったりしています。しかし、実は2004年から2年かけてマイクロフィルムを元にして不二出版が復刻しました。ですからこういうものが返還されると不二出版が迷惑するのかなあと考えたりしています。




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