Saturday, December 15, 2007

「戦時人体実験と平時医学研究序論」―――没にしてもらった原稿

以下は、11月10日締め切りで依頼され、まとめた原稿だ。最近校正刷りがきたが、結論部分が勝手に、しかも僕の考えてもいないような内容に修正されていたので、原稿の撤回をお願いした。掲載をお断りした。

しかし一度書いたものをそのまま雲散霧消させたくないので、ここに投稿することにした。

原稿のタイトルは上記の「戦時人体実験と平時医学研究序論」としておく。以下が没にした原稿だ。


僕が731部隊で知られる石井機関について調べようと考えたのは、戦争という極限状況下における科学者、この場合は医学者、の行動を見極めたいと考えたからだ。そのきっかけは2つあり、1つは1968年から69年にかけての学園闘争、もう1つはそれ以前から続いていたベトナム戦争での枯葉剤使用があったと思う。この2つの問題を通じ、原爆を作り、枯葉剤を発明し、その社会的・人類史的意味を説明しようとしない科学者とは何なのだ、ということを強く考えるようになった。

こうした問題に取り組むには、危機的状況下における科学者の行動を見ることが早道だろうと考えた。それは平時には温厚で常識に富んでいる科学者もそうした状況下では別の顔を見せるかもしれないと期待したためだ。そこで歴史研究の対象として選んだのが石井機関の科学者(医学者)たちだった。彼らが戦争中何をし、戦後自分の行為とどう向き合ってきたかを調べることにした。

この選択は、危機的状況下での科学者の行動についてのケーススタディとしては妥当なものだったと今も考えている。しかし医学史、医学における人体実験という観点からはどうだっただろう。

大規模な人体実験の事例としては、いずれも米国での2つの例がある。一つはアラバマ州のタスキーギで1932年からほぼ40年続いた黒人男性に対しての梅毒についての事例①、もう一つは1940年代から90年代まで続いた放射能の影響を調べたより大規模な事例②がある。②が明らかとなるきっかけとなったのは『プルトニウムファイル』(E.ウェルサム、翔泳社、20007)だった。

①では、被験者には治療をしたように思わせて実際には治療はせず、経過を観察している。②の実験は多岐にわたるが、石井機関での病原体の植付けに相当する、放射線を浴びせそれがどのような結果をもたらすかを観察したものが含まれている。その中には被験者がもうけた子供への影響を観察したものもあった。①と②に共通するのは、実験担当者が被験者を殺害して、病変を観察し、標本を採取することはやっていない点だ。解剖などは被験者がその病気あるいは別の原因で死亡した後に行われた。これはたまたまそうなったのだが、もう一つ共通するのは、これら人体実験が明らかになり、最終的調査結果の発表後、米国政府として正式に謝罪したのがクリントン大統領だった、ということだ。米政府としての自国民が対象とはいえ、正式謝罪は、石井機関の人体実験、中国戦線での化学兵器使用、さらに従軍慰安婦と呼ばれた方がた、いずれも外国の人々だ、についての日本政府の対応とは大きな違いだ。

石井機関の人体実験と米国の2つの事例との間の大きな違いは、前者が軍の施設という非日常的空間で行われ、後者では多くの場合一般の市民が使う医療施設が舞台で、被験者にとっては日常生活の中で行われたという点だ。その結果として、①および②は40年から50年の長きにわたって、継続的に人体実験が行われた。こうした長期にわたる医学的にまた社会的に許容されない人体実験は日本では行われていないのだろうか。もしかした、①の内部告発者や②のウェルサムのようなジャーナリストがいないだけで、実際には多数の事例があるのかもしれない。僕は自分の関心から危機的状況下での科学者の振舞いを見るために石井機関の人体実験を取り上げたが、今後必要なのは平時における科学者(医学者)の振舞いの見極めではないかと思っている。これまでに発熱療法などでの許されない人体実験が告発されてきたが、十分追究できていなかった。これから再度こうした問題に取組む必要があると考えている。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home